某所からの

2005年8月28日
”ある人にとっての真実はその人については真実”という意見を反証することから始めさせていただきます.

まず,この主張は古代ギリシアの(だったと思う)相対論と全く完全に同一です.”全ての意見は相対的に正しい”という主張です.

なぜなら,ある人,つまり任意の一個人を取り尽く(積分するという意味です)せば,全ての人となり,その人にとってはという言葉は”AとBは対立するが,どちらも正しい”という相対論そのものであるからです.

相対論は,その主張自体を相対化せざるを得ないという矛盾をはらむため,誤りであるという反証がなされ,これに有効な反論はなされておらず,論理的に,自明に誤りであります.

これは,個人の考え方とは全く関係なく,社会とも人間の存在とも関係なく,一切の反論を許さない真理です.

古代ギリシャ以降の思想史は”相対論の否定”に立脚しており,相対論の否定なくして,あなたのよく引用するデカルトの方法的懐疑も,Cogito ergo sum いう結論も成立しえません.

デカルトの主張すら,既に誤りであることが証明されていますが,ここではそのことについては触れません.

ここで,一つの疑問が生じます.
”論理的に正しいのは分かった,しかし,論じ自体の正当性は危ういではないか?論理とはいえ人が作ったものだから,それを認知する人間が全部いなくなってしまったら,論理も無意味ではないか”という疑問です.

残念ながら,この問題には答えがありません.
少なくとも僕の能力では答えることが出来ません.

そこで,”拘束条件”を与えることでこれに対処します.
少なくともまず,論理を認知する人間が存在しているという前提,そして議論を行う上で論理は正当か?という風に検索空間を限定します.
日常生活においては後述します.
議論と日常生活を切り分けること自体の正当性については疑問が残りますが,大意には影響しないということで保留させていただきます.

議論というものは,そもそも論理を共有して初めて成り立つものです.可能性として,将来的に論理以上の議論の方法が発見される可能性も0ではありませんが,現状では論理を用いることがベストであるというのが,社会の共通認識であり常識です.
これは会話するために言語を共有する必要があるのと完全に同一です.身振り手振りで除法交換は出来ても,話し合いは出来ませんね?

また,少し話がそれますが,議論において,主張をするときには,主張するものがその根拠を述べて正当性を証明する努力をするのがルールです.一方的に自分の主張を述べ,全くその根拠に触れないのは明らかなルール違反です.

つまり,論理が議論に不要だと主張するのであれば,論理以上の優れた正当性の主張法を示し,その正当性について証明する義務を負うということです.

あなたがもし1+1=5を主張するなら,それを証明する義務はあなたにあるということです.

次に,”そうはいっても心の中で思うことは自由ではないか?誰にも否定できないだろう”という反論が成り立ちます.

しかし,それ以前にあなたは完全に論理的には誤りである相対論を声高に主張しています.仮に,”心の中では何を思っても自由”が正しいとしても,”それは誰にも否定できない”としても,”誤ったことを主張すること”はやはり誤りです.

既にあなたは1+1=5であると主張してしまったということです.繰り返しますが,これを証明する義務はあなたにあります.

また,”心の中で何を思っても自由,誰にも否定できない”としましょう.

これもまた誤りです.

なぜなら,”否定することが出来なく””主張することも出来ない”主張は”存在しないのと同じ”だからです.

これは前にも述べました”オッカムの剃刀”論理です.

ここまでの内容は,少なくとも議論ということを行う全ての人間の間で共有されている,すくなくともそうであるべき”真理”です.なぜなら,そうでなければ議論が成り立たないからです.”それだけ?”と思われるかもしれませんが,少なくても”議論をしよう”というのがお互いの共通した意思であれば,それで十分です.

次に,日常会話における論理の運用について述べます.ここからは,私自身の理想を踏まえた上でお話しようと思います.
つまり”そんなにこ難しいことばっか言ってると嫌われるじゃないか”という反論です.

これには一定の説得力があると認めざるを得ません.”人は論理よって動機付けられるわけではない”からです.
”私はこう信じていなければ生きていけなかった”というのもこの範疇に入ります.

日常生活において,常に真理を追究する必要はありません.少なくても,自分の目に映るものは真実だと捕らえなければ,いちいち”今大根握ってるけど本当はレンコンかもしれない”なんて思っていたら生活できません.

しかし,私はこう主張します.”人一人の知性には限界があるのだから,お互いに論理を共有して共通認識を拡張し,より真実に近づこう,より広範囲の,深い理解を手に入れよう”です.

これには相手の承認を必要とします.従って私は,そうしないか?とあなたに問い掛けるわけです.

最後に,高飛車な物言いで申し訳ありませんが,あなたの主張は”個別性の尊重に名を借りた真理への冒涜であり,全ての議論の断絶”です.”相対論の否定という共通認識”の上にすべての主張は成り立っているからです.

繰り返しになって申し訳ありませんが,
お互いの主張が論理的に正しいという前提の元,パラメータへの重み付けの正当性を互いに検証しあう.もしくは,個人の能力では把握しきれない複雑な論理の切り分けを複数の人間の手を借りて行うのが議論です.
あなたの主張は論理的矛盾をはらんでおりそれ故に議論のテーブルに上がることを拒絶しているのです.それを理解してください.

こういうことを言うと私が悪役のようですが,あなたの言葉がやさしさから出たものであっても,愛情から出たものであっても,そんなこととは全く別の次元で(Levelではなく,Dimensionです)間違っていることは間違っているのです.

長文且つ,感じの悪い書き込みで大変申し訳ありませんが,相対論の主張だけは許容できません,それ以外のところではほぼ認識は一致していると思うのですが,これは唯一ですが致命的な違いなのです.
子どもに対して,”がんばれば空を飛べるよ”と言うよりはるかに罪深い嘘です.

出来る限り厳密な主張を心がけたつもりですが,気がつかなかったミスや不完全な部分もあるかもしれませんし,致命的な論理の破綻がないとも言い切れません.

コメント