Javaがわからん。

2001年4月26日
今春から、Javaを授業でやることになった。

てか、教えてるのが最近赴任(?)してきた人で、
プリントや板書があまり無くひたすらしゃべっていて一日中ぼーっとしている僕には何のことやらわかりゃしません。

あとでD星人に聞くか、はー。

GW中に本買って勉強すっかな。

学校指定の奴、分かりにくいし。

さういえば、公文でバイトを始めました。

あ、実名出しちゃった。

まあ、気づかなかった人はいないだろうから、どうでもいいや。

しかし、公文の教材って死ぬほどくだらないよね。

あんな物を毎日やらされたんじゃ、やる気がしないって泣き出すのも、当然だな。

僕も昔、公文をやってたんだけど、そこでよく泣いてたね。

思うに、僕は公文なんかやるには頭が良過ぎたんだよ。(おいおい。)

この意見に反論する人間は、僕の知り合いの中じゃ99.98%ほどしかいないね。(知り合い5000人もいないんですけど。)

公文の教材ってのは、数学は計算ばっかだし。

国語は文章そのまま抜き出す奴ばっかだし。
英語は。。。よく分からん。

だいたい、よくできる奴が学年より先にいけるのはともかく、出来ない奴を学年落とした教材使うのはどういうことやねん。前にやったこともう一度やったって、新しいことができるようになるわけないやん。

ヘーゲルに学べって感じですな。

そもそも学習という言葉の定義は、”肉体的ないし精神的経験により、経験者の肉体ないし精神に起こる変化”です。細かい表現は間違っているかもしれませんが。

いくら四時間しか眠らずに勉強したって、それによってもたらされた変化が、知識が増えたというだけでは、ねえTせんせ。

計算ができるようになったり、漢字が書けるようになったり、英語の単語が分かるようになることは確かに必要なことかもしれませんが、単にたくさんの知識が身につくことより、たとえ少ない知識でもそれが自ら問題を発見し、解決法を模索する道具となったり、あるいはそれが生き様を変化させたり(ども、表現がうまくありません)といったことが出来た方が価値があるのではないかと思う。

と思うという表現をとらざるを得ないのはそれが確たる真実であるということを証明するに足る情報を僕は持っていないからだ。

今にしにて思えば、僕らが小学生だ五六年生だったころの先生は、ある問いに対し1つの答えを与えそれを暗記させるような教育は全くせず。生徒達同士に意見を出させ、意見を戦わせ答を探させることに終始していた。この先生が今の僕のアイデンティテ
ィ形成に大きく影響を及ぼしている事に気づいたのはごく最近のことである。

さて、そろそろページが限界に近くなったかもしれないので、この辺にして続きはまたいつかね。

コメント