今日はダンサーインザダークの感想でも書こうとか思っていたのだが、おりゅーさんが実に見事な切り口で感想を述べてくれたので僕のような文章がド下手な人間が余計なことを言うのはやめておこう。
っというわけで、今回はこのダンサーインザダークを引き合いに出して、死刑制度について苦言を呈してみたいと思う。ついでに、アメリカの裁判制度、特に陪審員制度についてコメントしたいとおもう。
この映画、実に見事に、そして的確に、アメリカへの批判が込められているのだが、それはまたの講釈。まずは、死刑支持派の理論を一つ一つ論破していく事から始めようとおもう。
死刑支持派が第一に掲げるのは、死刑の廃止によって凶悪犯罪が増加するのでは、ということである。
これは、最も簡単に論破できる。
既に死刑の廃止を決めた諸国で、凶悪犯罪の増加は認められていない。これは、推測の類ではなく、既に結果の出た事である。すなわち、死刑は凶悪犯罪の抑止力にはなりえない。理由はめんどくさいので省かせてもらう。
遺族の感情を取り上げる場合もある。
これは少しあいまいになってしまうが、論破できなくも無い。
まず、日本は法治国家であり、法律で復讐は禁じられている。という前提がある。
そして、刑罰とは死刑を除けば犯罪者を更生させ、社会復帰させる事が目的であり(これに異を唱える人間もわずかながら存在するが、法律がそうなのだから仕方ない。これについても今度ゆっくり論破させてもらおう)被害者の復讐を代行するものではない。また、どんなに残酷な殺し方をしても一人殺しただけでは死刑になることはまずない。二人三人と殺せば高い確率で死刑になるが、おのおのの遺族の恨みはどちらの場合も同じはず。一人殺した犯人の遺族の恨みは晴らされず、二人三人の場合は晴らされるというのは矛盾ではあるまいか? そもそも国家が個人の復讐を代行するという考え方自体が法律とあまりにかけ離れているが・・・。
理論だけに頼るといまいち説得力に欠けるので、不本意ながら感情論を持ち出そう。
刑罰というのは、物質的にてを下した者とそれに命令を下した者にのみ適応される。
それ以外の方法、すなわち致命的な一言によって自殺に追い込んだ人間や、ある種暴力的な手法をもってシェアを独占し、それによってたの会社ないし店舗を経営困難に陥らせ、自殺者を出した会社、弱みに付け込み法外な利子で借金を負わせ自殺に追い込んだ金融会社なども罰せられる事は無い。しかし、被害者の感情とすれば直接てを下された場合と大して相違は無い。だが、これらの場合復讐が国家の手によって行なわれる事はありえないし、これを個人の手で行なえば処罰される。
物質的に手を下した場合は国家が復讐を代行し、そうでない場合は復讐さえ認めない。これを正義とするのは奇異奇天烈極まりない価値観だと思うのだが。
どうもうまくまとまらなかったが、犯人の死によってのみ救われる遺族の心なんてものは、端から病んでいるような気がする・・・・。
さてさて、第三の理由である。
一度釈放された犯人が、通報した人間や遺族を逆恨みし、殺人を繰り返すことを、死刑によって防ぐという主張である。
確かに、そういうケースは数多く報告されており、看過する事は出来ないであろう。
しかし、これは終身刑(無期懲役ではなく)を導入すれば防ぐ事は出来る。
脱獄の可能性もあり、被害者は安心できないではないかという指摘もあるであろうが、現在の死刑制度ではいつ誰が死刑になるか公表されないのだから同じことである。被害者は結局不安だ。
まあ、公表すればすむ話なのだが。
この辺はそうまでして人を殺したい?とでも言ってごまかしておくしかないだろう。
ここまでは、死刑制度支持派の主張を論破してきただけだが、今度は積極的に死刑制度の弊害について論じていきたいと思う。
まず1つ、これは精神論だし、僕以外にこんな事を考えている人は少ないだろうからあんまり気にしなくてもいいのだが。・・・・
それは、死刑を受ける人間が死刑に至るまでに受ける苦痛はその人間の犯した罪よりも大きいのではないかということ、死刑囚の多くはは死刑台に登るとき恐怖で足がすくんで動けなくなるというが、どんな凶悪犯でも被害者にこれほどの恐怖を与えた者はいないであろう。
なぜなら、犯人に襲われた被害者は”殺されるかも知れない”と思うだけだが死刑囚を待っているのは逃れられぬ確実な死である。
さらに言えば、死刑の日時は死刑囚には告げられない。それを待ちつづける死刑囚の心境たるや、想像することさえ容易でない。
ま、これは死刑に反対する根拠にはならんけどね。
第二に、無実の罪で死刑になる人間もいるかもしれないということ。岩窟王事件以来再審制度も確立されているが、それでも絶対にありえないとはいえない。死刑してしまえばその後決定的な証拠が出てももはや取り返しがつかないが、終身刑で牢獄に入っていれば賠償金を支払うぐらい出来るだろう。
(最もそれで十分だとは口が裂けても言わないが。
)
ここまでだと、死刑なんかせんでも終身刑の方がええよー。といってるぐらいだが、最後に決定的な一事を上げようと思う。
それは死刑執行人の精神への悪影響である。
死刑制度を導入している多くの国で(日本を含む)
死刑執行人が、自ら殺人を行なった事件が数多く報告されている。この一事をもって死刑制度が彼らを殺人者たらしめたとはいえず、端から人を殺したい人間が死刑執行人を志願しているのかもしれないが、その場合でも死刑制度は殺人者の息抜きに使われた事になり、どう言葉を取りつくっても健全とは言いがたい。
以上の根拠をもって僕は死刑制度の撤廃を強く求める物である。
うーん、長くなったねえ、陪審員に関してはまた明日ね。
っというわけで、今回はこのダンサーインザダークを引き合いに出して、死刑制度について苦言を呈してみたいと思う。ついでに、アメリカの裁判制度、特に陪審員制度についてコメントしたいとおもう。
この映画、実に見事に、そして的確に、アメリカへの批判が込められているのだが、それはまたの講釈。まずは、死刑支持派の理論を一つ一つ論破していく事から始めようとおもう。
死刑支持派が第一に掲げるのは、死刑の廃止によって凶悪犯罪が増加するのでは、ということである。
これは、最も簡単に論破できる。
既に死刑の廃止を決めた諸国で、凶悪犯罪の増加は認められていない。これは、推測の類ではなく、既に結果の出た事である。すなわち、死刑は凶悪犯罪の抑止力にはなりえない。理由はめんどくさいので省かせてもらう。
遺族の感情を取り上げる場合もある。
これは少しあいまいになってしまうが、論破できなくも無い。
まず、日本は法治国家であり、法律で復讐は禁じられている。という前提がある。
そして、刑罰とは死刑を除けば犯罪者を更生させ、社会復帰させる事が目的であり(これに異を唱える人間もわずかながら存在するが、法律がそうなのだから仕方ない。これについても今度ゆっくり論破させてもらおう)被害者の復讐を代行するものではない。また、どんなに残酷な殺し方をしても一人殺しただけでは死刑になることはまずない。二人三人と殺せば高い確率で死刑になるが、おのおのの遺族の恨みはどちらの場合も同じはず。一人殺した犯人の遺族の恨みは晴らされず、二人三人の場合は晴らされるというのは矛盾ではあるまいか? そもそも国家が個人の復讐を代行するという考え方自体が法律とあまりにかけ離れているが・・・。
理論だけに頼るといまいち説得力に欠けるので、不本意ながら感情論を持ち出そう。
刑罰というのは、物質的にてを下した者とそれに命令を下した者にのみ適応される。
それ以外の方法、すなわち致命的な一言によって自殺に追い込んだ人間や、ある種暴力的な手法をもってシェアを独占し、それによってたの会社ないし店舗を経営困難に陥らせ、自殺者を出した会社、弱みに付け込み法外な利子で借金を負わせ自殺に追い込んだ金融会社なども罰せられる事は無い。しかし、被害者の感情とすれば直接てを下された場合と大して相違は無い。だが、これらの場合復讐が国家の手によって行なわれる事はありえないし、これを個人の手で行なえば処罰される。
物質的に手を下した場合は国家が復讐を代行し、そうでない場合は復讐さえ認めない。これを正義とするのは奇異奇天烈極まりない価値観だと思うのだが。
どうもうまくまとまらなかったが、犯人の死によってのみ救われる遺族の心なんてものは、端から病んでいるような気がする・・・・。
さてさて、第三の理由である。
一度釈放された犯人が、通報した人間や遺族を逆恨みし、殺人を繰り返すことを、死刑によって防ぐという主張である。
確かに、そういうケースは数多く報告されており、看過する事は出来ないであろう。
しかし、これは終身刑(無期懲役ではなく)を導入すれば防ぐ事は出来る。
脱獄の可能性もあり、被害者は安心できないではないかという指摘もあるであろうが、現在の死刑制度ではいつ誰が死刑になるか公表されないのだから同じことである。被害者は結局不安だ。
まあ、公表すればすむ話なのだが。
この辺はそうまでして人を殺したい?とでも言ってごまかしておくしかないだろう。
ここまでは、死刑制度支持派の主張を論破してきただけだが、今度は積極的に死刑制度の弊害について論じていきたいと思う。
まず1つ、これは精神論だし、僕以外にこんな事を考えている人は少ないだろうからあんまり気にしなくてもいいのだが。・・・・
それは、死刑を受ける人間が死刑に至るまでに受ける苦痛はその人間の犯した罪よりも大きいのではないかということ、死刑囚の多くはは死刑台に登るとき恐怖で足がすくんで動けなくなるというが、どんな凶悪犯でも被害者にこれほどの恐怖を与えた者はいないであろう。
なぜなら、犯人に襲われた被害者は”殺されるかも知れない”と思うだけだが死刑囚を待っているのは逃れられぬ確実な死である。
さらに言えば、死刑の日時は死刑囚には告げられない。それを待ちつづける死刑囚の心境たるや、想像することさえ容易でない。
ま、これは死刑に反対する根拠にはならんけどね。
第二に、無実の罪で死刑になる人間もいるかもしれないということ。岩窟王事件以来再審制度も確立されているが、それでも絶対にありえないとはいえない。死刑してしまえばその後決定的な証拠が出てももはや取り返しがつかないが、終身刑で牢獄に入っていれば賠償金を支払うぐらい出来るだろう。
(最もそれで十分だとは口が裂けても言わないが。
)
ここまでだと、死刑なんかせんでも終身刑の方がええよー。といってるぐらいだが、最後に決定的な一事を上げようと思う。
それは死刑執行人の精神への悪影響である。
死刑制度を導入している多くの国で(日本を含む)
死刑執行人が、自ら殺人を行なった事件が数多く報告されている。この一事をもって死刑制度が彼らを殺人者たらしめたとはいえず、端から人を殺したい人間が死刑執行人を志願しているのかもしれないが、その場合でも死刑制度は殺人者の息抜きに使われた事になり、どう言葉を取りつくっても健全とは言いがたい。
以上の根拠をもって僕は死刑制度の撤廃を強く求める物である。
うーん、長くなったねえ、陪審員に関してはまた明日ね。
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